JST戦略的創造研究推進事業CREST
マルチセンシング領域2022年度採択課題


空間識の幾何による
重力覚解明と
感覚拡張世界創出

Geometrical Understanding of
Spatial Orientation



ABOUT

JST CREST生体マルチセンシングシステムの究明と活用技術の創出」領域(総括 入來篤史)
2022年度採択課題「空間識の幾何による重力覚解明と感覚拡張世界創出」(代表 平田 豊)の情報発信サイトです.

研究期間

2022年10月〜2028年3月(予定)

目的

本研究では,異種多感覚統合による空間識形成の神経メカニズムを新たな計算理論により定式化し,これに基づき空間識を所望の状態に操作するための人工多感覚刺激デザイン法を開発して,空間識を制御する方法を確立します

背景

重力と空間識

我々が多様な環境下で安全に行動するには,常に「自己の状態」を意識・無意識下で把握しておく必要があります.中でも,自己の姿勢や運動状態の把握は,他者や周囲環境と相互作用しながら安全かつ迅速・精緻に行動する上で不可欠です.こうした脳内で推定される自己の姿勢や運動の状態知覚を「空間識」と呼びます.地球上の動物は全て重力の影響下で進化・発達を遂げ,鉛直下向き・1Gで不変な重力ベクトルの存在を暗黙の前提条件として空間識を形成しています.そのため,耳石器と呼ばれる重力センサを内耳に有し,常に自己と重力ベクトルの相対関係をモニタリングしています.空間識を形成する過程でも,重力ベクトルの脳内推定値である「重力覚」が基準軸として参照されます.重力のない宇宙船の中では重力覚が乱れ,結果として空間識形成に失調をきたし,宇宙酔いと呼ばれる自律神経症状(冷や汗,嘔吐など)を発症する宇宙飛行士が多数報告されています.地上においても,例えば,重力ベクトルに対して傾斜したマジックハウス内では正しい重力覚が得られず,正常な歩行動作が困難になり,転倒してしまう人もいます.

空間識操作の可能性

重力覚ならびにそれを基準として形成される空間識は,主に前庭センサ(三半規管,耳石器),視覚センサ(網膜),体性感覚を司る深部感覚器(筋,腱,関節内受容器)や触覚センサ(皮膚内触覚受容器),ならびに聴覚センサ(鼓膜-耳小骨-蝸牛)からの異種感覚情報を統合することにより形成されます.しかしながら,これらの感覚センサのダイナミックレンジの制約や重畳するノイズにより,上述のような特異環境下でなくとも,いつも正確な空間識が推定されるわけではありません.特に,アインシュタインの等価原理として知られる重力による加速と,力の作用による直線加速の等価性により,重力センサである耳石器は,身体の並進運動と重力軸に対する傾きを識別できず(Angelaki et al., Nature, 2004),両者を混同する錯覚(空間識失調)が生じることも知られています.この錯覚(Somatogravic illusion)は,航空機のパイロットが前方への直線加速を上方への傾きと知覚し,それを補正するために誤って機首を下げて墜落してしまうなど,大事故につながる危険をはらんでいます.一方,近年では,ヘッドマウントディスプレイの普及により,安全が保証された仮想空間において自分は静止状態にありながら,落下感や浮遊感,回転感,加速感など,空間識推定の誤りを楽しむこともできるようになっています.こうした空間識形成過程の不完全性は,上述の異種感覚センサへの刺激を適切に組み合わせて与えることにより,所望の状態に重力覚や空間識を操作・拡張できることを示唆しています.実際に,遊園地の乗り物には,視環境変化(視覚刺激)と椅子の傾斜により前後,左右,上下方向の加速感をはじめ,浮遊感や回転感など様々な空間識を与えるものもあります.ただし現状では,視覚刺激の種々の時空間パラメータやヨー,ピッチ,ロール回転の速度,振幅などの頭部刺激パラメータは試行錯誤的なチューニングにより決定されており,所望の加速感を得るためのシステマティックな方法論はありません.空間識形成過程を表現する数理モデルが構成できれば,これらのパラメータを数理的に定めることができ,メタバースを支える重要な基盤技術にもなるはずです.

数理的アプローチによる新展開の必要性

空間識形成過程の数理モデル化は,1970年代からSomatogravic Illusionなどの代表的な空間識失調の再現と機序説明を目的に,伝達関数を用いたフィルタモデルなどの古典制御理論の適用から始まっています.近年では,現代制御理論の枠組みで状態空間モデルを用い,種々の感覚入力に対する空間識形成過程をモデリングし,ベイズ最適化による推定値としていくつかの空間識失調状態を模擬する試みがなされてきました(Laurens et al., Exp Brain Res, 2011; Laurens & Angelaki, eLife, 2017).しかしこのアプローチでは,非可換な3次元回転運動に3次元の並進運動が加わり,これに重力軸に対する傾き,さらに視覚や聴覚など異なるモダリティの環境変数も加わることにより,状態空間の構造把握が困難でした.そのため,重力覚の形成やそれに基づいてなされる空間識形成過程,ならびに空間識失調の発生状態を明確に表現できず,システマティックな空間識操作法や空間識失調防止法のデザインが困難でした.

Graphical Abstract